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院長の独り言

院長の独り言vol.156-159

院長の独り言 その156   <ノーマジーン:20152月号>

抱負

今年は高3で受験生の息子がいるため、自宅で妻の手作りお節料理でお正月を過ごした。毎年お屠蘇を飲みながら、家族で今年の抱負を語る。今回は妻が「抱負に加えて、家族への要望を言おう!」と言い出した。するとさすがに大学生の娘が「私が家族に言いたいことはないけど、お母さんからはあるやろうからお母さんが皆に言ったら!」と言い放った。その一言で、私と息子と娘は妻からのおこごとの覚悟をした。

秋篠宮家ではないが、私の導火線は少々短く、それでも結婚26年間ほとんど夫婦喧嘩をすることがなかったのは、妻の導火線が長かったからである。そして、子供達と親子喧嘩をしなかったのも同様で、家族みんなそれを分かっている。ねずみ年の私、羊年の娘、丑年の息子、干支で考えると静かで穏やかな3人に、寅年の妻から要望が伝えられた。

内容は「玄関の靴は並べること」から始まり、規則正しい生活をするようにと言うものだった。あまり怒らない妻から注意されるのかと、3人は過去の悪事が走馬灯のように駆け巡ったはずだが、意外に優しい指摘にホッとした。そして翌日「玄関の靴を並べとったよ」と息子。それに比べて、夜更かしをしないように注意されたのに出来ない私。そんな中些細なトラブルがあり、私の導火線に火がついた。

いつもなら反論しない妻から「今までずっと何も言わずにやって来たけど、何かが起こると私のせいにするのはもうやめて!トラブルはお互い様でしょう!」と言われた。導火線の火はついたものの、ねずみがどんなに吠えても所詮トラの一声に勝てる訳がありません。

今年は何かのミスがあっても、私にも落ち度があるかもと謙虚な気持ちで過ごそうと思います。院長の独り言が、院長夫人の逆襲にならないように。

 

院長の独り言 その157   <ノーマジーン:20153月号>

母は強し

2月に友人の娘さんの結婚披露宴に夫婦で出席した。出席者300人弱の盛大な披露宴で、人力車に乗っての新郎新婦の入場から始まり、愉快な太鼓やプロ顔負けの歌やディナーショーばりのバンド演奏があったりと、とてもユニークで楽しく型破りなものだった。もちろん撮影したが、優しそうな新郎とはじけた新婦のガッツポーズが印象深かった。
一番の型破りは、実父と養父が参列した事かもしれない。座席表の肩書きにはどちらも「新婦の父」と書かれ、しかも親族席で隣同士である。もちろん最後の花束贈呈では舞台に5人の親が並んでいた。なんだか不思議な感じがしたが、泣かせどころの新婦の手紙にはやはりうるうるしてしまった。遠慮がちな実父は号泣していた。
友人の結婚式に出席していた昔は、新婦や新郎の友人達に目が行ってたけれど、最近は親の立場になってしまい、娘を嫁に出す父親が気になってしまう。息子ができて嬉しそうな母親とは対照的に娘を取られた気分で寂しそうな父親達。そんなことはお構いなしに新夫とラブラブな花嫁。笑いあり涙ありの素敵な披露宴は無事お開きになった。
新婦母が「元旦那に今の旦那に私、こんな3ショットはもうないよ!超レアよ!」と言われ撮影「じゃあ記念に一緒に写真を撮ってよ!」と真ん中に妻が入っていった。
シャッターを押しながら「女は強し!そして母はもっと強し!この人達は別格、尻に敷かれておこう」と悟った。

 

院長の独り言 その158   <ノーマジーン:20154月号>

ドン

高3の息子の浪人が決定し、予備校の寮に入ることになった。入寮前に私の実家のある沖縄に家族で帰省した。私の両親は私が3歳の頃に離婚し、私は弟とともに母親に育てられた。
すぐに次の家庭を築いた父親とは、数年に一度会うくらいで、私達の結婚時に25年ぶりに両親は再開し、結婚式で金屏風の前に2人で並んだ時は、何とも不思議な感覚だった。その後父とは意見の相違で絶縁され、子供達は祖父の顔を写真とビデオでしか知らなかった。息子の浪人が決まった時、妻は私の父に電話をし、一緒にお墓参りをして食事をする約束を取り付けた。
①80歳を超えた父が孫に会いたくないわけがない
②葬儀が初対面では孫も可哀想
③浪人生は葬儀に出られない可能性もある
3つの理由が揃ったので電話をしたらしい。もちろん事後承諾である。
久しぶりに会う父は随分と丸くなり82歳の現在も医師として時々働いて車の運転もしている。孫達との会話も弾んでいた。隅っこでは妻が後妻さんに、終末期の迎え方や亡くなった後の納骨や法要のことまで、私は決して聞けそうにない突っ込んだ質問しながら盛り上がり、無事に楽しい食事会は終わった。
そして帰省の一番の目的は、「まだらボケ」ので出した母に会うことだった。母親や弟やいとこ達とホテルで会食した。毎回帰省時は妻が参加者全員へのお土産を準備する。そしていつのまにか私より皆に信用されて可愛がられて、またここでも盛り上がっている。私はと言えば、最近食べたことも忘れる母から、同じ話を何度も聞かされながら切ない気分になっていた。沖縄に行きながら観光することもなく、ただ親戚に会うばかりの旅だったが、「おじいちゃんに会えて本当に良かった」との息子の一言に、胸が熱くなった。なのに「動くおじいちゃんを見れるのはこれが最後かもよ~会えてよかったね~」と笑い飛ばす妻は我が家のドンである。

 

院長の独り言 その159   <ノーマジーン:20155月号>

健診

友人のクリニックで健康診断をした。首から胴体部分の ct スキャン、心電図、腹部エコー、胃カメラ、大腸ファイバーをやったが、大腸ファイバーが大変だった。今でも涙目になる。

2年前にやった時は、腸を空っぽにするための下剤を普通の人の倍量ごくごくと飲み、眠ってる間に全て終わった記憶がある。どうせ麻酔で眠るのならばと、胃も腸も一緒に済ましてもらった。
2日前から腸を空っぽにするために食事制限をし、下剤を服用。前日は液体のみ。前回楽勝だったので、妻が止めるのも聞かずチョコレートや、ゼリーやお酒と個体じゃない!と口にした。元々私は便秘症で太く長い腸を持っている。そのため友人等に相談して検査当日早朝から飲む予定の強力な下剤を前日夜から飲んだ。おかげで深夜3時までは何度もトイレに行った。夜更かしは慣れているのでそれほど苦痛ではなかった。
当日朝から絶食で友人クリニックに到着。2年前と同様、昨晩と同じ下剤を追加で3分の2ほど難なく飲み干し、何度もトイレに通った。しかし看護師さんはまだまだ腸が空っぽじゃない!と。
それではと浣腸をした。「浣腸してトイレ」を5回繰り返すし、お尻の穴はヒリヒリ、本来ならば検査も終わり一眠りして帰宅予定時間になった頃、浣腸の在庫がつきかけたため、やっと検査のGOサインが出た。下剤を飲むのもトイレするのもそれほど辛くなかったが浣腸は閉口した。
検査中はスヤスヤと眠らせてもらい無事終了。いじめられたお尻に座薬が出され、ほっとした。まだ結果はわからないが検査をなめたらアカン!と反省した。2年後が憂鬱である。

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